余命ということばを医者が使うとき、そこには希望がこもっている。
最近、医者ははっきりと「あなたの余命は5年ですね」のようにいわない。言う医者もいるだろうけど、たいていの場合、「ですが・・・」と続いているだろう。
「余命」と聞いた患者はその期間が短ければ短いほど絶望し、そして老い先の短さに悔い、非常に大きなショックを受けることは間違いが無いからである。人間、ショックを受けることで現在の病状が悪化することは”病は気から”といわれるように稀ではないので、ショックを受けることかもしれないというのをあらかじめ断ることが多い。
この「余命」を宣告する時期というのは限られていて、一つはがん診断時で、もう一つはがん治療が終了し、腫瘍サイズがX-pでは視認されず、マーカーが(-)ならば寛解といわれる時期にくる。その寛解時に今後の展開についての説明時で、さらにそのほかは、再発時と臨死期間際である。
臨死間際であると、余命ではなく「この夜が山場」とか「家族を電話でよぼう」という死亡予告に近い形になるが、この4つだ。
各々で内容は異なってはくるが、発言する側は確率で言っているためほとんど統計に基づいた生存論だ。そう、死亡論ではなく生存論である。余命、つまり残された時間でできることは何か、整理することは何かということを患者は考える。医者は、患者のよりよい方向性を患者が決めるための情報を提示し、決めさせるという仕事もある。何せ治療だけが医療者の全てではない。
ここで医療者と枠を広げる。
余命を宣告された患者はショックをうけ、そしてそれにさいなまれ続ける。
余命というのはそういう意味が大きい。全てではない。だがその大きさは日に日に増してくる。それだけを考えているとただ日々が無駄になってしまう。それを無駄にしないように拾って、気づいてもらうというのが医療者全体の考え方だ。
特に終末期へと入った患者は死に対してどのような選択をするのか迫られる。それを医療者が強要してはならない。もちろん、患者側からいくら「決めてくれ」といわれてもだ。患者と医療者は小さい関係ではない。長い付き合いをする中で家族よりも信頼関係が高まる事もあるし、それは少なくない。
その信頼関係の中だからこそ、余命という言葉は非常につらい。そのことを患者が悩んでいるとすれば、早く解決してあげたいという気持ちは一入である。
だが、医療者はつらい、悲しいということを伝える前に医療者の側として情報を提供しなければならない。それは、一線を越えないという意味でもあり、医療者としての義務でもある。主観的情報だけによらず、客観的な情報を意識させ、悲観的になりすぎないように、あるいは楽観的になり過ぎないようにコーチングしてゆく機能こそが重要な役目だということだ。