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ラベル 個人的な闇。みないこと推奨 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2016年3月3日木曜日

新しいブログを作ろうと思ったけれど。

新しいブログを作ろうとして断念しました。
FBの超長文Verをこっちで書くというのをやっていたはずなんですが、最近は話し相手は相方ができたのでそこで徒然と話しているせいで、あんまりFBにもかかなくなりました。

新しいブログに書こうとしたのは、自転車の記事。
そんなに記事にするほどのことはしていないんだけど・・・
でもみんなが自転車の記事書いてるから僕もその波に乗ろうかなと・・・。
思っただけ。思っただけなんですよぉ!

本当に暇ができたら、グーグルのマイマップつかって訪れたところを表示できるようにもしたいし、やりたいことはたくさん。そういうまとめるの好きなんだろうね。

とりあえず明日は速いのでこの辺で。

2015年7月5日日曜日

何ヶ月ぶりか?

最近全く更新が無かったのに突然更新をし始める。
そんなブログです。

いや、単純に社畜やってたので、忙しすぎてまず利便性の少ないこのブログの更新作業というのはほとんどできなかったっていうだけ。
おかげ?で、先月の電気代金、驚きの二千円台。(いつも6千円台行くのに)
いわゆる基本料っていうのが1500円で、使うとそこに加算されるのでほとんどつかってないっていう意味です。


さて、最近はというと、動画編集が頓挫してみたり(そのままあげればいいのにね)
財布盗まれてみたり
オービスひっかかってみたり
旅行にいけなかったり
原付こわれてみたり

なんなんだろうねー厄年なのかな?






厄年でした。

そんなものもあることをすっかり忘れていたので厄払いなんていっておらず。
本当に痛い目にあいすぎておりまする。

2015年4月27日月曜日

すっごくすっごくひまなので

最近NEET化しました。
労働意欲がなくなっているので、モチベーション保つだけでも大変。
そんなときにここで独り言です。
ということでまた一時的に更新増えますよ。

2015年3月3日火曜日

医療者としての会話はつらいと思っていてもそれを飲み込んで話すことも必要(である調)

余命ということばを医者が使うとき、そこには希望がこもっている。


最近、医者ははっきりと「あなたの余命は5年ですね」のようにいわない。言う医者もいるだろうけど、たいていの場合、「ですが・・・」と続いているだろう。
「余命」と聞いた患者はその期間が短ければ短いほど絶望し、そして老い先の短さに悔い、非常に大きなショックを受けることは間違いが無いからである。人間、ショックを受けることで現在の病状が悪化することは”病は気から”といわれるように稀ではないので、ショックを受けることかもしれないというのをあらかじめ断ることが多い。
この「余命」を宣告する時期というのは限られていて、一つはがん診断時で、もう一つはがん治療が終了し、腫瘍サイズがX-pでは視認されず、マーカーが(-)ならば寛解といわれる時期にくる。その寛解時に今後の展開についての説明時で、さらにそのほかは、再発時と臨死期間際である。
臨死間際であると、余命ではなく「この夜が山場」とか「家族を電話でよぼう」という死亡予告に近い形になるが、この4つだ。

各々で内容は異なってはくるが、発言する側は確率で言っているためほとんど統計に基づいた生存論だ。そう、死亡論ではなく生存論である。余命、つまり残された時間でできることは何か、整理することは何かということを患者は考える。医者は、患者のよりよい方向性を患者が決めるための情報を提示し、決めさせるという仕事もある。何せ治療だけが医療者の全てではない。

ここで医療者と枠を広げる。

余命を宣告された患者はショックをうけ、そしてそれにさいなまれ続ける。
余命というのはそういう意味が大きい。全てではない。だがその大きさは日に日に増してくる。それだけを考えているとただ日々が無駄になってしまう。それを無駄にしないように拾って、気づいてもらうというのが医療者全体の考え方だ。
特に終末期へと入った患者は死に対してどのような選択をするのか迫られる。それを医療者が強要してはならない。もちろん、患者側からいくら「決めてくれ」といわれてもだ。患者と医療者は小さい関係ではない。長い付き合いをする中で家族よりも信頼関係が高まる事もあるし、それは少なくない。
その信頼関係の中だからこそ、余命という言葉は非常につらい。そのことを患者が悩んでいるとすれば、早く解決してあげたいという気持ちは一入である。
だが、医療者はつらい、悲しいということを伝える前に医療者の側として情報を提供しなければならない。それは、一線を越えないという意味でもあり、医療者としての義務でもある。主観的情報だけによらず、客観的な情報を意識させ、悲観的になりすぎないように、あるいは楽観的になり過ぎないようにコーチングしてゆく機能こそが重要な役目だということだ。

2015年2月19日木曜日

親子関係。

親というのは面白い人ですよね。

一般的にこんな親はいやだという最低ラインを突っ走っているのに、時々気分で話を変えるところとか。
将来子供を持つ人たちは、きっと親からこんなことされたから良かった、とかそういうのを受け継いで、育てていくのだろう。
そして、反面教師のような存在でもあり、憧れを抱くようなモデルとして親がいたのかもしれない。
だから、諦めないようにだけはしてほしいですよね。

まぁ、隣の芝生は青いという言葉があるように、いつも友達の親が親だったらいいのになぁと思っていたのだけど、残念ながら実家の親は誰からも「お前の親いいなぁ」とかそういうのだけは一切無かった。。
なんででしょうね。まぁ、理由なんて一つなんだろうけど。

親から言われてきたことは、簡略化すると当たり前のことであって、やらなければならないことはおさえてある。まぁ特別そこが悪いわけではない。
問題があるのは、言っていることではなくて、TPOという概念はことさらあるわけはないし(いつでもどこでも)、まずは状況判断が非常に悪い。
たとえば、「片付けろ」というセリフを言うとする。
この場合、言葉だけを見るなら部屋が汚いのは明らかなのだが、まずは、片付ける場所が無い状況でもこのセリフが出てくる。
片付ける場所を確保しようとすると、「それは俺の持ち物だから捨ててはいけない」という言葉が飛んでくる。
次に、捨てるものを捨てようとすると「お前の部屋はゴミ溜め」である。
仕方ないので、箱につめるだけつめると、「お前、どうせ箱に入れただけだろ」の台詞のあとに、罵詈雑言。内容をまとめると「どうせまた引っ張り出す」
ちなみに「片付けろ」という時間帯はいつもバラバラ。たとえばの話だが、学校に行く直前に「片付けろ」と言ってから、学校に行こうとすると「片付けもできないのか」ちなみにこの間10分。
もう一つ言うと、片づけしているときに入ってきて「静かに片付けもできないのか」である。
これを5歳のころから言われ続けているのですばらしい。これで正しく育つと思っているのである。
いわゆる何をやってもダメというやつ。
最後の最後に、どうにかこうにか片付けると一言。「お前は片付けもできないダメ人間」→罵詈雑言→部屋の中で暴れる
なので、言うこと聞くことができなくなるのはわかりますかね。

いくつでも紹介できるのだけど、とりあえずもう一つ。
字が壊滅的に汚いのはよく分かっていることの一つで、昔から直したいと思っているのだけども、これに関して、口だけしか出さないのは親である。資本も時間も提供はしてくれません。
まぁ、これについては小学校のある先生のせいということもいえるんだけど。というかあれが一番悪化した原因。

言い分では「悪い遺伝子と悪い遺伝子が合わさってできてるんだから悪い遺伝子でしかない」ということらしい。
なにが言いたいかというと「お前がこの家に生まれてきたのが間違い」ということらしい。
すべての責任を人に擦り付ける親の鏡ですね。生まれてきたことも人のせいにし始めたら、もう終わりですよね。
短所を指摘するのはいいんだけど、短所しかない人間に仕立て上げるのが非常にうまいので、プロ市民が政権批判をするのと同じで、長所は全く無いそうです。
自分ができることは全て人より優れていると考えていることもあり、自慢話が始まると、無視していても気づかれないので、よく無視しています。
まず、一言でいいことを1時間かけて罵詈雑言に変える能力はすばらしく、その反面、重要なこと、大事なことはすべて終わった後、起こったあとに話される。まぁ、親の頭の中ではいつまでも子供だというのは分かるのですが。
こういうことは、親となる人たちはしてはいけませんね。
子供の尊厳をないがしろにする人たちというのは歴史的に見ても、いい死に方はしていないことや、転覆させられた人たちが多いことは分かっていることです。
あとは、子供の遊びには”我慢”させることは必要ですが、”取り上げる”のは良くないです。満足感や達成感そのものが欠如していく原因になるので、「今日はココまで」というラインを決めて我慢させる、再びできることを予期させる、取引させるということが必要なんですよね。
そういうことばかりが積み重なると、基本的に親子の信頼関係や家族の信頼関係というのは一切無くなっていきます。
あるのは”お金の束縛”だけ。生まれながらの借金ということですな。(どこの江戸時代だよ)


こんな親子作らないでほしいですね。


あ、あと一つ言うのであれば、
自分の意見は間違えていても曲げない。曲げるときはいつからいつまで間違えていて、詳しくどこが間違えていたか、一般的にか、主観的にか、そういう訂正の仕方を見せるのも親なんです。
人の話を聞いていなくて、話し合った次の日に違うことを言っていたりすると、信頼関係はまぁありませんね。
まぁ、仕事の関係よりシビアな気はします。責任が軽いという意味合いにおいては気楽なのかもしれませんが、ある程度の緊張感と困ったときに相談できるという関係をその上に成り立たせるためにはどうするべきかというのは、そういう細かいところから始まっているのです。
とまぁ、愚痴交えて、親子関係というのが鼻から壊滅的な家族のお話でした。
これを見て、子供ができたときに、こんな子供を作ってはいけないのです。

人前で喧嘩をするのはまぁとめませんが、子供はそれをどう見ているか。
目線って怖いですよ~あ、喧嘩は喧嘩でも、一方的ないい逃げ&周りで聞いていても理不尽な、たとえば生まれを責めたり、●●がだめなのもお前のせい、と責任転嫁。とか。


まぁ、もし関係が壊れたらお金だけは援助するといいですよ。
初めからお金だけ援助するのはダメですが。関係が崩れてからの援助ほど、ありがたく感じるものはありません。
それくらいのことはしたほうがいいというだけで、初めからそれ狙いはやめたほうがいいですね。

2015年2月16日月曜日

そういえば。

そういえば、テスト勉強する直前にこんな動画をあげていたよっと。
需要あるかなーと思ってちょっとがんばったけど、ぜんぜん需要無かったミタイダネー



※文字読み上げソフトを利用しています。苦手な人は注意。



しかも日本のカルデラ限定の紹介をしているしね。
海外のカルデラって以外と紹介したいところが多くて、基本的に検索が大変なのにさらに追い討ちかけるような出来事になりかねないということで、今回はナシで作ったよ。





地理学や地質学用語のカルデラだけど、こちら、本職ではありんせん。
Sience of...とか読めるけど(ふつう、大学の図書館においてあるしね。)、単科大学だから実は専門図書も少なくて困ってたぐらいには本職ではないね~


でも、実際、生化学系とか化学系、医学系のことはよく動画になっているのに、そういうことがあんまり動画として上がっていないというか、そもそも検索ヒット数0件っていう悲しいお知らせが届いたので、作るしかなかった。
ちなみに、動画としてまとめてあるものとしてはたぶん世界でも100例以下だと思う。(カルデラの語源がスペイン語なのでもちろんスペインや地質学の一番進んでいるイタリア語で検索してないからわからないけども。)



いやー伸びてほしい。伸びてほしいなぁ。





↓そのとき思ったこと。原発の話題なので、コレについてもしもコメントしようと少しでも思ったらバックスペース押して頂戴。


動画中で原発のこと扱っている番組からの画像が映ってるけど、「百害あって一理なし」みたいなことをその番組で言うのね。

まぁ、あんまりそういうことを平気で言う人って好きじゃないのさ。

原発の雇用は?
廃炉する手順を誰がするの?
誰がお金払うの?
残った燃料は?

っていう問題を一切しゃべらずに、リスクだけを言い続けるっていうのは本当に好きじゃないよ。

端的にいって即廃炉にすべきっていうのであれば、端的にいって、地球から人類が滅亡するほうがよっぽど環境にいいわけだし。
それと同じくらい端的な話を言ってるわけで、もっとも効率よく廃炉にする方向性に対する意見を述べたほうがいいんじゃないかい?
プロセス無視して結果だけ評価することや、結果だけを予期するっていうのはあまりにも端的な話だよね~

まぁ実際、現在の社会全体が結果評価が全てで、プロセス評価はされない。まぁコレは子供の教育についても同じなんだがな。

批判したがりなんで、これ以上批判し始めたらキリがなくなってきてしまうよっと。



まぁ、ひねくれた目線の中立論だからぐにゃぐにゃしているけど、どっちより?って言われてしまえば「廃炉にすべき」のほう。
でも、薫陶を受けた人たちのように、「即時廃炉!」とか言わない。ンなことできるわけネェだろっていう話。








(「薫陶を受ける」っていやみで使ってるんだからわかれよ・・・?)

2015年2月5日木曜日

好きな人は

突然だけど、今の野党の弁論を聞いていると、なんでこんな人たちが政治してるんだろ・・・とか思ってしまうのだけど、昔からだったわ。

イギリスの会議とかのほうがめっちゃ建設的な話が出ることが多いし、カナダ議会のほうがマシだった。
まぁ、平和な方向という意味では日本って平和なんだけど。

それはそうと、政治のことを言うだけでなくて仕事とか運営をする人たちが言い争いするときって、必ず批判しかしていないよね。
批判するだけして言いっぱなしっていうのがね。言いっぱなしなのは嫌いなんで、それこそ責任をとれよと思うんだけど、その責任を取るっていうのが単にまた批判を重ねるだけっていうのが一番腹立つ。
まぁ、全てにおいて肯定的意見を持てとは言わないから、批判をするのなら自分の意見を述べて、それを検討させるとか、方向修正の提案をしていくような建設的な話をしないとだめだろとおもうんだよねぇ。

そこで国会の話が出てくるんだけど、よく「建設的な話を。。。」というのが出てくるんだけど、











全く建設的な話・・・・できてないよね・・・・うん。



愚痴のために頭を回したり、失言をさせるために頭を回したり、全てが利己的な頭をお持ちの人たちの集まりなのは本当に残念なんですよね。


建設的な話をしたいのであれば、議員としての自分の話を出すのではなくて、もっと本当に一般の人からのヒアリングを返すような、偏っている人だけの意見ではない面を反映させたことを言いましょうよ。


靖国の話もそうですし、(2015年2月4日の細○議員の話とか、辻○の話とか。)原発の問題もそうですよね。






まぁ、この人は議員の資格がないと思って、わざと入れないようにしていても、参議院から当選したり、人の支持を得ることがうまいだけに別の場所で当選してみたりしてるんですよねぇ。
国民が「コイツダメダ」ってなっても、議員を引き摺り下ろすことはほぼ不可能だからほんとねぇ。



よく日本人の学力は大学入試までの努力だけで決まるって言われているけど、それと一緒だよねぇ。政治家っていうか国会議員の野党人員とか特に。元与党でも野党に成り下がったとたん仕事が雑になりすぎるとことかあるし。(自民)
与党になっても野党になっても方向性が残念な人たちがいたり(民主)
するんですよねぇ


本当に、ヘタなバラエティ番組より国会中継の予算会議見るほうが面白いですわ。ほんと。面白いって思うと同時に、クールダウンするけどね。いろいろ。
アホみたいな質問をしている人たちが建設的な話をしたいとか、するとか言っていることを考えると、こんな人は嫌いにしかならないなと思うわけですよ。

というわけで、タイトルに帰結しましたのでおしまい

2014年11月15日土曜日

矛盾のその先


その昔何物も突き通せない楯と何物も突き通すことのできる矛(なぎなたのさらに長く鋭利な槍のようなもの)を売っていたものがいた。あるひとはこの両者を付き合わせたらどのようになるのかを問うた。もちろん売人は答えることはできない。



これが矛盾のことわざなのだが、さて問題はこの先である。


本当にやってしまうとどうなのか。





たぶん答えは”矛の柄が折れる”


だろう。

結果的に突き通せなかったじゃないかという人もいるだろうが、誰も”一度で”とは言ってない。そこがこの突きあいのミソじゃないのだろうかと思うのだ。そして、これをいった子はもちろん実際にそれをさせたわけでもないし、ただのたとえ話なのだがそれを言っていないわけだ。
だから、実際にやるとなったら何度だって同じところを突けば良い話。それを無限回行うことができるのであればこの矛盾は成立する。制限があるのならば矛盾はもちろん成立しない。つまり解がでてきてしまう。

でも、その矛盾を成立させる無限回の試行によって柄が壊れる。だって木だもの。(○○○)




いや、もちろん子の”たとえ話”ということは分かっているけど、ほらね。融合するとかアホな話があったりとかするからどうしても書きたくなってしまった。

とりあえず本当の矛盾の話へのリンクおいときます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%9B%E7%9B%BE

2014年8月4日月曜日

誰が楽しみにしろとか言うんだよあほか?
頑張ったことを総否定される予定がたったのに、生きてることまで否定されてうれしいならド変態だよ全く
なんで8月なんだよ意味わかんねとりあえずくる理由がないのになんで来るのかわからん
そんでもって要件が5分ですむなら5分ですませて帰ってくれと言いたいもう子れいしょうおれのせいかつにかかわらないてまくれないか
とりあえず、入力氏ね
不幸な未来が理解できるのに落ち着いて弁かこょうなんかで切るかぼけ誰の仕業だ?学校側の仕業だったら覚悟してほしいね腹立たしい

2014年7月31日木曜日

いつからか

最近欝です。
病院行こうかな

悩んでも相談する相手がいません。
相談しても単に話してるだけだから、相談してない
ちなみに、今回のもたぶん複合型の原因なので解決しません。糸賀からまってるみたいなもん。
引っ張るだけではだめ。
もしほどけても、楽になるだけ
人から頼られて答えられない自分が嫌いなんだけど、今は時間を巧く使えないからすごくつらい。
そして、どれくらい巧く使えないかって言うと、体を洗う時間が
もてないということかな。完全に洗わないわけではないけど、ひげ剃り忘れとかそういうのが重なる。次のレベルはゴミが捨てられなくなること。
ゴミが捨てられなくなると、自殺企図があるよ。たぶんビニールひもを切り始める。

でも、自殺に対する考えはこの前より願い事態は低い。
刺激を意図的に少なくしてるのはあるけど(人の落ち込むことを平気で言う先生とかには会わないとか)、それよりも直接死んだらやだって言われたのが強いと思う。
そういうのは実際言われても相手がわれてるとか、本音は死んで良いよごみぐずという目をしてたりと、まあ相談して結果的に言葉だけみたいなひとがおおいわけだから、効果無いことがほとんどなわけですよ。
それがなさそうな人から言われたから、考えが少ない可能性があるのです。
まぁ、もたてろん死んだことくらいは伝えたいので、離れてるから自殺したことを知らせることができないと、やだなぁと言う気持ちが強いだけだと思いますが。
なんかケータイからでは買きにくいのでこの辺で

2014年7月17日木曜日

鬱になると


ギャップがあるとつらい。だからギャップがないように笑わなくなる。
笑うとしんどい。楽しいことがつらい。
これがリズムの底ならいいのになぁ
好きなのに好きっていっても帰ってこない。単に「ばーか」
相手ははじめのほうだけ、しかも感性がマヒしてるお酒を飲んでいるときだけ「好き」っていってた。あとは「ドキドキする」とかそういうの。
俺って感性マヒさせないと好きになれないような人間なわけ?そうだわな。
前ならどうでもいい、とかおもっていたけど、たぶんこれはどうでもよくないことだったからココまで気になっているんだろう。まぁこれが最後とかおもってるわけだし。もう、後がない。そういう気持ち。
ケータイとかもみたくない。気になるから。がんばって顔を背けて勉強にむかっても、そもそもそれに力が行き過ぎてだめだった。
ちなみに今がんばっているけど、正直学校にも行きたくない。人の顔みたくないし。誰の顔も見たくない。そして誰の声も聴きたくない。左耳があかんなってから、正直耳が聞こえない恐怖みたいなのはあったけど、「ま、いっか」っておもったのはきっとそのせい。
なんでおかね払わせてまで花火みようとしてんだろ俺。ばかみたい。というかばかだな。ぜんぶ、やーめたしたいな。

2014年6月30日月曜日

イラァ

さすがに限界もある。

人前で言っていいことの限界値は割かし低いとおもう。
それを乗り越えて感情に訴えかけるのは簡単だが、もちろん逆なでするのも簡単なわけだ。


つまるところ、逆なでされたような気分になっているわけだが、理由なんてものはしょーもない。限界値が低かっただけのことなので、悪気はないのかもしれない。


とかくウザくて無駄授業をやっていると評判のあの教授のことだが、今回は
イライラしていただけだったので、スルースキル発動してもよかった。なでなければ。なでてきたらするーするわけにもいかない。かってにほぞんされる野で変換がうまくいかないのだが気にしないように。


残念ながら積もっていたストレスが爆発しかけたといっておく。連投してるのからわかるようにフラストレーションがたまりすぎていて仕方がないのだ。だいたい野問題点として、あの世代は人へのかかわり方というのが一番雑な世代である。簡単に言えば一番察せない人たちが集まっている。よかったのかわるかったのか、その後の廊下で悪態をつきまくったおかげデイライラしているところまでは復活し、内容までは思い出さないようにと脳みその昨日をシャットダウンしようとしている。
ああ、ねむい


イラァとしたのはいいが忘れてしまってはしかたない。もういいや。なんか今日は鬱みたいな状態じゃないし、まぁいいや って思えるだけいっかな。

感情鈍麻ってのは

そうそう。忘れていた
鬱っていうのの病状のひとつに感情鈍麻ってのがある。
鈍くなるんだ。
たとえば親しい人が死んだとする。「ああ、死んだ」たったこれだけの感情しか出ない。なきたくてもなけない。つらくなろうとしても、これ以上つらくなれない。うれしくも、かなしくも、なーんともない。ただの流れ。喪失することの意味が別のところにあるような感覚なのだ。
怒りも反感も、表出することはほとんどない。だから「死ね」とか言う言葉を使われた日には、大体死ぬ一歩手前にもなる。恐怖も怒りも憤りもないから、反抗しない。命令に従う。目の前の予定を完遂しようとする。たとえば無理な注文でも感情鈍麻になっていると、断ることはできない。そもそも本質的に断れない人が多いんだが、脅迫感が一切ないたのみごとでもその人にとっては目標になる。
自分を突き動かすためには目標が必要となるが、できるだけ実現可能性の高いものであればあるほどその目標に対する補足度は上がる。もちろん質問は一切なし。言われたことだけをやる。感情鈍麻になっている人が「死んだほうがいいですよね」とか言い出したとき、それは彼が楽になりたいからとか、逃げたいからというのではなく、”実現可能性の高い”目標の一つであるからだ。必死で止めなければ大体数日中にやらかす。
必死で止めると、まぁだいたい6割はとまるんじゃないだろうか。
鈍麻状態になっている人が考えるプロセスは簡単にいうと、直結型の思考プロセスになる。「自分」を排除した作業域には”時間”と”達成チェックポイント”と”ゴール”がある。スタート地点は同じ。そこから一番早く目標を達成するかという思考プロセスであるといっても寡言ではない。
目標はゴールになるが、これを説明するとしたら・・・・うつ病を患っている人が工場で単純作業をやっていました。その人は目の前の完成している製品の入ったケースを、左手20mのところにある別のライン(A)に運ぼうとしています。安全に運ぶためには右手10mほどのところ(B)にある台車を持ってくるほうがいいでしょう。ケースの高さは1m程度。持ち上げると目の前が見えません。ヨコに歩けば簡単ですが、足元にはグラインダーや電導ドリル、かなどこ、坩堝などの危険物がさまざま。ポートカーなどが往来する場所でもあります。察しているひとは多いと思いますが、この人はわざわざBには行きません。Aに直接もっていきます。これにってアクシデントが起こるわけです。
一般の人ならインシデントを起こさないために台車をとりにいったり、周りの整理をしたりしますが、鬱の人は、Aにさっさともっていく ということしか頭にないのです。事故で犠牲になる”自分”への認識が薄まり、恐怖という感情が無くなっている鬱状態のときは、常に自分を意識する必要があるというわけ。
さて、人生についてだが、達成チェックポイントが少ないのは「生きること」と「死ぬこと」のどっちが多いだろうか。もちろん愚問だが、生きることのほうがつらい。だからこそ、鬱の人にたいして「死ぬ」という選択肢の危うさを心を受け止めながら諭す必要があるのだ。
と、だれもこのことを理解したうえで話を聴いてくれないし相談にも乗ってくれないし、相談したとしても一切受け付けられないのでここでかくのであった。HAHAHA
感情鈍麻のプロセスがわかっただろうか
フェイスブックに乗せたら総批判食らうだろうからあそこには書かない。
ってことでここにわーーっと書こう。
とりあえず、一言先に言うと、ひとつだけ気に食わない授業が学校で入っている。
正直言って、8コマ分無駄な授業をさせられている。いや、単に無駄という意味ではない。
有意義に使えるはずの時間の一部がそのコマにとられているせいで、前の日から数えて8コマ連続で授業がある。コレは何を意味するのか。それは印刷の時間がないという答えになる。
グラフまで作って家で印刷しようとすると、基本的に朝の7時8時からになる。ウチの印刷機は遅い。きれいだが。遅い。
学校のは白黒であるため、わかりにくい。だが、学校ではパソコンは基本的に取り合いになる。つまり、印刷は不可能というわけである。それなのに、その有意義に印刷に使うための時間が、そのコマに撮られている。授業の内容に入る前にこのことを書いたのは、もちろん授業の内容が非常に、それはもうSillyで、どうしようもない。
まだこれだったら、この時間をアルバイトでもしたほうがお金にもなるし、ある意味で勉強になる。この授業のためにレポートをいちいちかいて、起きている必要があるというのか。もちろんのことである。
ココで習うのはいわゆる社会の常識。
あまりにも扱いがひどいのではないだろうか。しかも学校側は、この授業を4年間通してやろうとしている。あまりにもBoolsitな話だ。何がおかしいか。別に学外から来ている講師のことを批判するつもりはない。立派にいろいろな人に教えてきたのであろう。この授業の内容で教える内容については、簡単に言うならば「働く」ことに対する意欲や向上心を持たせるための授業なのだ。我々のように働くことをいわばほぼ保障されている人たちが、資格を取った後働かなくなるのは惜しいという考えからだろうが、この授業をやったとしても、その意識は一切といっていいほど変わらないだろう。逆に言うならば、この授業をやることで働くことに対する意欲が減少することもある。「なぜこのようなことを学んでまで働く必要があるのか」と。社会の常識だから知っておく必要があるんだよというのであれば、病院で最低限知っておいたほうがいい知識を与えていくほうがまだマシなのではなかろうか。ラウンド時の受け持ちとか、BSを測るときにさっさとやる方法とか、電話対応時にどうするかとかだ。
よっぽど対応力がつく。
なんせ、毎回レポートを書かされているわけだが、言葉を書くことがさらにましていやになってきたのだから仕方がない。これはもちろん自分の正確もあるし、ほかの人はどうかわからん。これだけは確実にいえるというのはみんな「楽しくない」「楽しみでない」「早く終われ」とおもっていることだろう。この授業に対して何も考えていない人も多く、この授業中にほかの事をしている人のほうが圧倒的に多い。俺は絶対にそういうことができない性分だから、みんなと違って進みも遅い。
だから俺はこの授業が大嫌いなのである。4年生にもなってこの授業のためにテストがひとつ増えることを考えると、さらに頭の痛い話だ。
看護について研究ができるというのに、なぜこのようなことをせにゃならんのだとなり、最終的に興味までそがれそうで、厭々受けているという現状。

あー


つまらんな。ほんまに

2014年6月21日土曜日

個人的メモ

・何もできていないことにイライラしている。
・面倒くさい
・さらにイライラする
・時々何にイライラしているかわからないけど、イライラしている
・目をつぶると首をつる姿が目に浮かぶ。
・目をつぶるといろんなシチュエーションで首をつっている
・何も考えられない
・感情が出ない
・無意識に歯を食いしばっている
・目を開けているとどうでもいいことが頭をめぐる。
・眠いけど寝るのがいやだ

生きるってやっぱりつらいねぇ。

劣等感ばっかりかんじているひとからすると、大体生きていることがつらいときがある。
そゆときは誰かにそばにいてほしいんだけど、基本的には近くには誰もいないことが多い。
生きるっていうのは、考えを変えると死に方である。
どんな風な死に方をするか。もちろん一人で、誰かが片付けるのだが、嫌々片付けられるか、屍をそっと抱き上げてくれる、あるいは花いっぱいの棺のなかに骨が埋められるか、それはあなたの選択しだいだろう。
生きているときがつらいとき、俺はよく・・・具体的に言えば、10分間勉強の手が進まなかったり、幸せな時間をすごしていてふと気がついたとき、悶々とすごしているときは常に死にたくなる。
とりあえず、今すぐ楽になりたい。楽に慣れるかはしらないけれど、自分自身の生命活動を停止させて冷たくなりたいと考える。
そのときは大体8割くらい、現実的な状況を考える。目の前に課題があるとか、目の前の幸せを逃したくないとか、来年はあれがあるだの、奨学金をかりているからだの。そんなことで思いとどめられる。後の人が”困るから”という理由だからだ。
つまり、自分の生き方は、一番最後に誰にも迷惑がかからなくなったとき、あるいは最低限の迷惑しかかからなくなったときに”死”を選んで生命活動に終止符を打つ。そうきめている。言い換えるならばそういう生き方となったときにだ。大体自殺をするひとの部屋はきれいだ。あるいはその人なりに片付けてある。
片付ける合間に次の日になって死に切れなかった人もなかにはいる。俺がそうとかいえないが。
という前おきはもう置かれたのでいいとして、劣等感というのはいつかんじるかわからない恐怖がある。正直、あとから思い返せば、考え方を変えるだけで異なるふうになるのにもかかわらず、感じる。
抑うつ状態であるときは特に劣等感を感じやすく、被害妄想的になりやすい。ここまでわかっているのに、精神が安定しないときは困る。
もちろん片付ける気力もなくなってしまうのでずるずると生きる。たとえロープがあっても片づけが優先だ。(どうしてかはわからない)
もしも、部屋の中に何もない状態、かつ借金とかも一切ない状態で劣等感を感じてしまったら、残念ながら統計上で3万人弱いる自殺者の一人になる。楽しませられない人だとか、会話が浮かばないとか、時間を使わせてしまっているとか、勉強ができないとか、細かいことで言えば、あ、いま話をさえぎってしまった。あ、勘違いしてしまった、あ、思い出せない・・・日付間違えた・・・全部に劣等感を感じるのだ。
体がおもうように動かない状態にも常にイライラしている。やりたいことができないように、その劣等感を感じなくさせることもできない。すこし脳の反応が良くなってきて、脳神経細胞の興奮が賦活してくると、そのような考えが少し少なくなり、持ち上がってきた状態になるとやっと自分の死に方を思い出す。ああ、そうだったと。
そして目の前の課題に取り組むために”生きる”のだ。
俺は、そうなるのを知っているから、落ち込みはじめから落ち込んでいるじょうたいでは、決断をしない。できるというわけでもないが。
だから常にあの時なんで死ななかったんだろうとか、タイミングを逃した・・・と感じ続ける。だけどいいのだ。決断ができないのはいつものことだから。
おもうような死に方ができないのならあえて決断を下す必要はない。生きることはしに続けることとは違うから、理想の死のためにつらいとかんじながらも生き続ける。



さっ、勉強の続きやろ。頭の中は2割くらい出せたきがする。同じ悩みを持っている人が見つけられたらいいけれど。

2014年5月24日土曜日

失敗が続くと

人間だけでなくたいていの動物は失敗から学ぶことができる。これを学習と呼ぶ。人間は失敗を予測して行動を行える現在のところ唯一の動物である。その上でもわざと予測されている失敗に対してある程度の対策をしつつ、避けられない失敗を経験し、更なる対策法を学ぶことができるのである。
失敗という出来事そのものは非常に大切ということがわかる。
ここで、「失敗にもめげず」という言葉を出してみよう。
この言葉は更なる対策法を見出すために失敗を重ねても底から学びとろうという非常に前向きな言葉である。同じ失敗に対していろいろな索を練りつつ重なる失敗に対して非常に有効な言葉なのだ。ここで言われる失敗は、傍目から見れば同じ失敗なのだが、本人の中では同じ失敗は二度とないという意識が持てている。
これが、同じ失敗だと認識してしまうことが起きると、とたんに人間の心は折れてしまう。
同じ場面、さけることのできない場面において、失敗が起きると、「もう二度とするか」とおもう。だが、人間その結果は覚えていてもその過程についてのインパクトが少ない。さらに言うならば、その場面になってはじめて気がつく程度まで過程はその人にとって重要でないという認識がなされてしまう。
「失敗した」という結果を強く評価しすぎ、その評価内容ではなくさらにその評価の結果を記憶してしまい、結局過程について認識が欠如しがちとなるのだ。
これは人のコーピング能力を下げてしまい、結果として経験による学習そのものが失われるのだ。
そのため、何かしら同じような失敗を繰り返してしまっている人、そうおもっている人がいれば、その人にとって自分自身の回顧そのものが強化因子とはならず、内部因子として影響されてしまうのである。
それに気がついた時点で周りがどう行動するかや、自己的な変化がなされなければ結局悪い方向に流れることとなる。

2014年5月21日水曜日

先生ほど

学校の先生という立場ほど雑なことを雑談で話しても責任を持たなくて良い職業はないだろう。
特に、大学付教授であればなおさらなのではないだろうか。政治家などがパーティーでアイスブレーキング用にスピーチをすると、その内容は全国紙レベルで批判されることが多い。安部総理しかり福田さんしかり麻生さんしかりである。

完全に内輪の話となってしまうのであるが、A教授の授業があった。その授業は新カリキュラムに合わせたもので、うまい具合のつながりがなく、位置づけが微妙であり教授自身も乗り気ではなかった。そのためかAの雑談が多い。もともと話をすすめるためであったり、寝ている人を起こすために雑談をする場合が多いのだが、今回の話はとある統計ソフトの説明で、危険率の話があったときだった。
株をやっている知り合いがいて、なおかつ株をやり続けている親がいるそうだった。
まぁ、落ち着けたかった場所は「株をしている人はリスクを見極めるために会社の全てを知っておく必要があるんだ」というところだったらしい。
そこで出てきたのはパソコンの話。
「パソコンの画面を3つならべてさ、パソコンも3台あるんだよ」ということであった。さて、パソコンを3台つかっていったいなにをするのだろうか。マーケット監視用というだけであれば、1台のパソコンに3枚の画面があれば十分である。(一般的なトレードソフトの場合)
パソコン3台?画面が独立しているならマウスムーブは相当やりにくいし、HIの切り替えがめんどうだろうに・・・・と少しでもそういう情態のパソコンを触ったことのあるひとならわかるであろう。

そしてそもそも、毎日トレードしているという時点でただのデイトレである。
デイトレさんたちには悪いが、取引している会社の事情を全て知り尽くしている人はほぼいない。証券会社ですら調査部門の人間でない限りほとんど情報として扱うことはできないだろう。親がやっている株っていうのは昔ながらの信用取引系のトレードということなので、デイトレのようなハイリスクの取引を行っているわけではないため、あえてパソコンの話をそこで持ってこないほうが着地点にスマートにいけたと考えられる。

そのときにB君にAが同意を求めたため話がさらに進んでしまったのだった。
Bは「俺のツレにもいるんすけど、部屋がパソコンだらけになってましたね」

ここで、多少理解できる人はいるかもしれない。
「この二人のなかでは モニタ=パソコン」という認識なのではないかと。
ちなみにここでいうとAは情報系の教授なのである。わざとでもない限り、モニタのことをパソコンといってはならないのではないだろうか。
そして、株取引について一般的なことを語るのならば、デイトレと個人取引の違いを踏まえたうえでしゃべってほしかった。あともうひとつ。わからない話を引き伸ばすのはやめてください。

そんなかんじでテキトーなことを話されてしまったことを長文でつぶやくのであった

2014年4月29日火曜日

トラウマ・・・心理的なほうの

俺は恋愛に対してトラウマが多い。
振られた経験よりも、音信不通系が多いからだ。
残念ながら、その経験は出会った異性に対して「この人は最後まで連絡を取ってきっちりと別れを告げてくれるだろうか」と疑問を投げかけてくれる。

さて、今回は、そんな疑問を一気に通り越して、バカみたいに先走った一人の男の話である。注意したいのはこれが現在進行形であり、さらに残念度が増すことになるのかもしれない。

それでは本編である。
あるSNSでけっこう適当に返信をおくり、特定の人以外にも適当に送る毎日が続いていた。そんな中、突然DMがあり、返信で優しい言葉がけをしてくれるということで話をしたいということがあった。
もちろん、快諾する。ネットではこういう接点を保つことはひとつのモチベにもなるのである。
これがことの始まりだった。

はじめは彼はどうせ一瞬どうせ一瞬という気持ちをもっているのだった。ここで彼がどうしてこんなことを考えているかという経緯についてだが、それは上記にある振出から察していただきたい。
その一瞬というには長い時間はなし、けっこうあうことがわかった。一時して、実は期間限定でイベントがあるということで、最終ラップくらいの情態だったのだ。早速案内を頼み彼が一路東京に向かうと、カメラなどを通してみていた女性の姿は想像以上にきれいで、その様子はかわいらしかった。そして、話までしっかりとあってしまう。
彼は直感でおもってしまったのだ。
運命...
ドラマや小説などでしかお目にかかれない展開のものだったが、感じてしまったのだった。彼女はというと「好き」という言葉を使っていてくれるものの、もっと「好き」な人は大勢いる。その中でも皮膚をふれあってもいいと思ってくれている中に入っているとまで教えてくれていた。二回目はお泊りに来てくれる番だった。彼女も彼も抱擁を求めていた。それが彼にとってはある意味でスイッチだったのだろう。
生理的に反応をしてしまっていた。そして、事を起こした。
それは彼女にとってもわだかまりとなった。帰って一日目で別の人と触れ合った。そして、彼に報告をし、「やっぱりあのときのことも後悔している」といったのだった。そして、「今日はいっぱい否定したのに、それでもキスをされたのだ」という。その日はそれ以上話をするのを否定されてしまった。
これ以上言い出せない。
そして、彼女は夜遅く家に帰り、机で寝息を立てて寝てしまった。「やっぱり嫌いになってもらったほうがよかったのかなぁ」と言い残して。
その日の天気は妙な涼しさの空気をたたえた雲がぶあつく広がっていて、その雲から雨がポツリポツリとふり、しとしとと途絶えることなく振っていたのだった。

2014年3月27日木曜日

親の身勝手さにはあきれた。

親から学んだこと。これは、人生に対して大きな影響を与えるもののひとつだ。
俺は、親から学んだことは「人の怒らし方」を学んだ。
学んだというかかってに会得してしまった。
一つ目は腹のたつ笑い方。
もうひとつは上から目線でしか頼めない
さらにもうひとつ、短気。

この三大要素を学んで、人生で損しかしていない。
ふとしたときにそういうのが出てくるのが一番の欠点で、自然に出ることからも、本質として存在してしまっている。
親のせいであることはひとつもないとか、
其れは全部自分のせいだというひともいるだろう。だが、それは同じ境遇にたってから初めて言える話である。同じ境遇なんて存在しないのに否定からしか語れない人間は、何かが狂っている。自分の人生をいちど振り返ってみるといいのではないだろうか。

子供の能力を全否定してそれがいいことだとかんじているのなら、なおさら子供を育てないほうがいい。もうあまり昔のことを掘り返しだすときりがないので最近のことだけに集中したとしても、たとえば「できないのに大学なんていってどうするのか」この一言は今でもストレスになっている。
はっきりいってテスト勉強中にこれを思い出した日には勉強どころの騒ぎではない。鬱の始まりだ。
勝手に涙は出てくるし、勝手に落ち込むし、勝手に頭がはたらかなくなる。何も考えないようにするためにはどうするか・・・なにも考えないようにするともっと頭の中で反響するようになる。勉強なんて集中すらできない。(しゅうちゅうを変換すると皺柱になるからもう第一変換オンリーにする)
ペンを持つ力さえ抜けるような状況にまでなっているのに、親はきづくことはさらさらない。その状況を理解しない。やれそこからは罵声大会のはじまりである。罵詈雑言の嵐と共にさて学び取ることはなにか。短気なことと人の起こらせ方を学ぶわけだ。
いったいどうしたらこんなに短気になれるのかがわからないくらい短期になる。文字を一文字一文字書くたびに、やるきの減少とともにフラストレーションが倍数的に増える。
ただでさえ、4年間だけしか払わないといっていたのが、もう払わないといってみたり、おまえの生活費は自分で払えといってみたり、月2万で、前後期の教科書代を自腹で払えといってみたりして、ただでさえ胃に穴が開きそうなほどストレスがたまっているのにである。
それで勉強に皺柱しろというのがなにかおかしなはなしではないのか。
畑が違う人がよその畑のひとにたいして、作物が違うのにもかかわらずどうして今種をまいているのかを説教してまわるのとおなじだ。お前の畑で育てているのは春野菜で、こっちでそだてているのは秋野菜なのにもかかわらずだ。俺は肥料をやらずに育てているのに肥料をやるのはなんでだおかしいだろと文句を散々いって、その肥料を全部捨ててみたり、そんなことをしたのになんで肥料をやらなくなったんだかれてしまうだろうといってまわるのとおなじ。
そんなのの息子ができるわけがないだろう。
そんなふうにしろと育てられたら勉強ができるようになるのかと。

コンバインで耕すような場所を全部一人で耕せっていっているのに、コンバインと同じ時間で作業することを求めているというのを気づきもしないのは、本当に親なのかと。
親である以前に人であることを求めていないならはじめから子供なんてつくらなければよかったんんじゃないか?
そもそもメンテナンスフリーの機会がひつようだとかんがえているのなら、はじめから其れを目当てに生活すればよいことだろう。



人は身勝手であってもそれを他人に強要することが必要なのか?



身近な他人は家族というのに、その家族にそれを強要するのなら、まず自分が変わるしかないんじゃないか?


子供の癖してという言葉があるが、はっきりいってこれは親の癖してというのが妥当だろ。
親が真っ当な生き方をしているというのであれば、その背中を見て子供があこがれるだろうが、
お前は真っ当な生き方だったか?子供が背中を見てあこがれるような背中だったか?
あこがれるような説明をしてきたか?
なぁ、俺はおまえを親とは認めたくないが、世間様は親だと言い張る。
なにをするにしても保護者として、保証人としての役目があるんだとさ。


たのむから、もうこれ以上邪魔をしないでくれ。
たのむから、もうこれから邪魔をしないでくれ。
たのむから、たのむから、俺の中からお前の記憶を消し去る時間を与えてくれ。
身勝手な言葉の応酬と、身勝手な行為にはもう飽きたんだ。
もう十分邪魔して気が済んだろ。 もう休めよ。