劣等感ばっかりかんじているひとからすると、大体生きていることがつらいときがある。
そゆときは誰かにそばにいてほしいんだけど、基本的には近くには誰もいないことが多い。
生きるっていうのは、考えを変えると死に方である。
どんな風な死に方をするか。もちろん一人で、誰かが片付けるのだが、嫌々片付けられるか、屍をそっと抱き上げてくれる、あるいは花いっぱいの棺のなかに骨が埋められるか、それはあなたの選択しだいだろう。
生きているときがつらいとき、俺はよく・・・具体的に言えば、10分間勉強の手が進まなかったり、幸せな時間をすごしていてふと気がついたとき、悶々とすごしているときは常に死にたくなる。
とりあえず、今すぐ楽になりたい。楽に慣れるかはしらないけれど、自分自身の生命活動を停止させて冷たくなりたいと考える。
そのときは大体8割くらい、現実的な状況を考える。目の前に課題があるとか、目の前の幸せを逃したくないとか、来年はあれがあるだの、奨学金をかりているからだの。そんなことで思いとどめられる。後の人が”困るから”という理由だからだ。
つまり、自分の生き方は、一番最後に誰にも迷惑がかからなくなったとき、あるいは最低限の迷惑しかかからなくなったときに”死”を選んで生命活動に終止符を打つ。そうきめている。言い換えるならばそういう生き方となったときにだ。大体自殺をするひとの部屋はきれいだ。あるいはその人なりに片付けてある。
片付ける合間に次の日になって死に切れなかった人もなかにはいる。俺がそうとかいえないが。
という前おきはもう置かれたのでいいとして、劣等感というのはいつかんじるかわからない恐怖がある。正直、あとから思い返せば、考え方を変えるだけで異なるふうになるのにもかかわらず、感じる。
抑うつ状態であるときは特に劣等感を感じやすく、被害妄想的になりやすい。ここまでわかっているのに、精神が安定しないときは困る。
もちろん片付ける気力もなくなってしまうのでずるずると生きる。たとえロープがあっても片づけが優先だ。(どうしてかはわからない)
もしも、部屋の中に何もない状態、かつ借金とかも一切ない状態で劣等感を感じてしまったら、残念ながら統計上で3万人弱いる自殺者の一人になる。楽しませられない人だとか、会話が浮かばないとか、時間を使わせてしまっているとか、勉強ができないとか、細かいことで言えば、あ、いま話をさえぎってしまった。あ、勘違いしてしまった、あ、思い出せない・・・日付間違えた・・・全部に劣等感を感じるのだ。
体がおもうように動かない状態にも常にイライラしている。やりたいことができないように、その劣等感を感じなくさせることもできない。すこし脳の反応が良くなってきて、脳神経細胞の興奮が賦活してくると、そのような考えが少し少なくなり、持ち上がってきた状態になるとやっと自分の死に方を思い出す。ああ、そうだったと。
そして目の前の課題に取り組むために”生きる”のだ。
俺は、そうなるのを知っているから、落ち込みはじめから落ち込んでいるじょうたいでは、決断をしない。できるというわけでもないが。
だから常にあの時なんで死ななかったんだろうとか、タイミングを逃した・・・と感じ続ける。だけどいいのだ。決断ができないのはいつものことだから。
おもうような死に方ができないのならあえて決断を下す必要はない。生きることはしに続けることとは違うから、理想の死のためにつらいとかんじながらも生き続ける。
さっ、勉強の続きやろ。頭の中は2割くらい出せたきがする。同じ悩みを持っている人が見つけられたらいいけれど。
0 件のコメント:
コメントを投稿