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2014年2月12日水曜日

今、学生に必要なこと、教育に不十分なこと。



いや、勝手に考えているだけなんだけど。


 僕自身が今ボランティア活動をずっとやっているわけなんだけど、周りがなかなかボランティアに興味を示さない。それどころかバイト一本っていうのが多い。うん。お金を稼ぐのにバイトは必要だよね。楽しい楽しいサークル活動も必要だよね。まぁそれはそれでいいんだけど、ボランティアっていうのもあるのを忘れないでほしいなぁ

 特に「就職忙しいんだよなぁ」とか言う人。あとは「やりたいことないけどとりあえず就職活動目標にしてる」って言う人。
ボランティアおぬぬめだよ。

 まず、社交力UP。
 ボランティアするときってぜったい人とのコミュニケーションが大切になってくるし大規模になればなるほど初めての人とコミュニケーションしていかないといけない。んで、回数参加すればまとめ役になる機会も出てくる。
 サークルとかだと上下関係が構築されていることが多くてまとめ役の大変さを理解できないまますごすことも多いんじゃないかな。上下関係がしっかりしすぎているとできることとできないことも出てくるのは確かで、まぁいろいろな視点もあるよね。
 それに、ボランティア活動をしていることが書けると割りと就職では有利。特に外資系なんかだと重視されるし、ボランティア活動って響きまで優れているんだよね。

 それで、活動ごとでの違いってなんぞやっていう話になってくると
サークル活動では中心的役割になっていると、おのずと人のまとめ方や指示の受け方もわかってくる。人のフォローの仕方なんかもそう。それはボランティアでもおんなじことだけど、ここからは精神論的な面が出てくる。

 サークルは好きだから続けているけど、ボランティアって何か自分が役に立てないかとおもって続ける。そしてどちらも達成感を得れる。ゴールは一緒だけどアプローチが違う。
それと、ゴールはラインのことを言うのは何かの競技をしている人ならわかるよね。
つまりゴールラインを超えてからはその進み方も違うわけよ。

お?なんか言いかんじにまとまってきたぞ

さてここから核心的なちょっとイイ話。

 ボランティアって何で重視されているか。何か人のためになるから?誰かのためになるから?
それもあってるけど、ボランティアっていうのは自発的で利他的で、先駆性があって無償性のある行為っていうていぎじゃないけど原則みたいなのがある。もちろん、ボランティアをしている人が全員が全員そんなキモチをもっているかっていうとそうでもないけど、全体の話ね。だから少なからずボランティアに対する目線はそういうのを求める目線でもあるわけ。
 社会に出て行くと、自発的に仕事を求めていかないと、上から降ってくる仕事なんて高が知れているし、そのままでは能力も上がらない。先駆性なんていったら社会人として求められる物そのものでもあるよね。社会人って実は求められてることいっぱいるのよ?
 それで全部が通じることは言わなくても(書かなくても)わかるとはおもうんだけど、社会人としての地位をほしいならばそれなりに犠牲(労力)を払う必要がある。
 如何ともし難い例にはなるけれど、大学とか高等学校になって過去問を手に入れようと必死になる生徒と、過去問を与えて下級生から慕われる地位を手に入れようとする生徒。どっちも利益を追い求める変わりにがんばるよね。
 これは完全に利己的だからボランティアではないから注意してもらうとして、結局何かの努力は必要ってことはわかるよね。
 努力が報われないとか言われているけど、それは努力したことがまだ実力としてついていないだけで、実力としてくっついてくるとぜったいに報われてくる。
 欧米だと、「noblesse oblige」っていう言葉がある。簡単に約すと、自分の地位の保持には犠牲と責任が伴うっていう意味。偽善とか慇懃無礼とかって差別的な意味での社会的責任のことをさす事もあるし、「私奉仕してるから贅沢してもいいでしょ」(贅沢だから奉仕している)っていう貴族の優雅な暮らしの隠れ蓑としても機能(言葉によって美化されていた)していた面もあるけども、やらない善よりやる偽善が結局誰かのためになるわけで、その偽善が評価されることはほとんどない。けれど、やらないことが善としていると周りからの目は冷やかなものになっていくのはわかるよね。
大震災のときに何かするのが当たり前っていうのがまさしくこれ。
 でもそういうのが過ぎるとっていうか、元来上の人には頭を下げるものであった日本では、武士道としての義の精神から心を鍛えるためにも奉仕を行っていることはあっても、それ以上の人は何もしていない。ちょっと昔の貴族院とか皇族の人たちからは西洋を取り入れてボランティアを推奨しているわけなんだけど。そんなこともあって廃れてきたのかな。
 ノブレスオブリージュって言う言葉はフランス語でどうしてもなじみがないけど、社会的責任って言う言葉に代えると、おかれている状況を認識しやすいね。
 このノブレスオブリージュを達成するためにボランティアをするって言うのが当たり前というか、一般的な認識となっているので、ボランティア活動っていうのは日本での認識とはわりと逆のイメージがあるっていう話。以上まる

 まぁ、最近は海外でもまた微妙になってきているのはたしからしいんだけど。

 結局、大学生のイメージって遊んでいるイメージがある中でボランティア活動をするって言うのはイメージを変えていける一歩だともいえるんじゃない?

 そんで、やっと本題半分の話。教育に足りないって言うのは、このことを教育できる体制。
 正直言って、ボランティア教育なんてやってるとこがどんな学校でもない気がする。カトリックとかミッション系の学校ならあるんだろうけど、一般的な教養として少ないよね。
 でも、強制でやらせるっていうのはボランティアとはぜんぜん違うから、興味がわくような話をするって言うことも考えて、高校とか大学でこういうのをやっていかないとなかなかうまくいかないとおもう。
 そういう高等教育の中でボランティアの話をするっていうのは何かしらのタブーになっているのか、それとも単純にやる気がないだけなのかはわかんないけど、もっとあってもいいなぁって。
 自分たちが何ができるか、どんなことなら続けていけるか、どうすればボランティアとして認めてもらえるか、何を欲しているかなど考えたり調査できるような活動ができれば、もうそれが完成した時点で社会人として大きく周りからリードできる人材になるんじゃないかな。”これやりたい””誰かの役に立ちたい”っていう気持ちだけだったのが具体化して言って、それが成功しようが失敗しようがそのプロセスが自分の経験になっていくんだから、正直下手な一般教育を下手にこなさせるより教育になるとおもうんだ。なんか日本語を正しく使おうとか、そういう授業があるけどそういうのいらないとおもう。いや、必要だけれど、必要としないときに教えられるもんだから逆に覚えていないとか正しくない使い方してみたりとか、必死さが無くなってくるんだよね。知識としてっていうなら授業なんかも一回でいいはず。
 つまり、何が言いたいかって言うと、そういう講義ができるような人が大学とかに一人くらい居たほうがその大学の将来は明るいとおもう。


 そうなってくると、方向性ってすごい変わってくるんじゃないかな。
 自分の楽しみと他人の楽しみが共有できるとか、自分の喜びと他人が喜ぶ姿っていうのが重なったりとかする状況を望むような活動をしていって・・・最終的にそれと今やっている仕事の関係を見つけることができて、周りにそのことを伝えることができるとかね。
 達成感をほかの活動と結び付けられるって言うのもボランティアの醍醐味かなぁ。
 スポーツとかに似たすがすがしさもあるから、スポーツ選手がシーズンオフとかにボランティアで清掃活動とか社会活動しているのもこの点にあるかもね。マンダリンパイレーツとか愛媛FCの人たちがテレビで「僕たちはこういうスポーツをさせていただいているから、その感謝の気持ちを忘れないようにこうやって朝掃除をしたり、体操を一緒にやったりしている」っていうのがあったね。(※このセリフはあいまいな記憶なので実際のセリフではありません)

 そんなわけで今の学生に対して人生の楽しみ方のひとつと、考え方の視点を提供するのであった。

 まぁ、ココまで書いてからでなんだけど、興味がない人はいつまでたっても興味がわくわけがないんだけどね。(言っちゃったよ (そして煽っていくのかよ

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